宮古島の観光スポットの仲宗根豊見親の墓-
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仲宗根豊見親の墳墓とは
15世紀末から16世紀始め頃に宮古島を統治した仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ)が、父親の真誉之子豊見親(まゆのふぁとぅゆみゃ)のために建てたお墓です。豊見親とは敬意を持って褒め称えるというような意味を持ちます。豊見が名高い、鳴り響くというような意味を持ち、親は尊称です。現代だと「様」が一番多くの人に使われている尊称でしょう。豊見親と呼ばれる人たちは、当時の島の人々から信頼と尊敬を受ける優れた指導者だったということを伺い知ることができます。
仲宗根豊見親のお墓に隣接して、知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみゃ)の墓とあとんま墓があります。この3基のお墓は「豊見親墓」として国の重要文化財(建造物)に指定されています。歴史や史跡に興味のある方にはぜひお勧めしたいスポットです。
仲宗根豊見親の墳墓の行き方
場所は平良港の交差点から北方面に向かって徒歩で3分くらいです。路線バスをご利用の方は平良港で降りて歩いて行くと便利です。車の方は、小さいですがすぐ側に駐車できるスペースがあります。通り沿いにある石造りで敷地の大きなお墓なので、見付けやすいと思います。時期によっては草が生い茂っているかもしれません。
仲宗根豊見親の生い立ち
仲宗根豊見親が登場する前、宮古島では2つの勢力が争っていました。1つは佐多大人(さーたーうぷんど)の勢力、もう1つはそれに対抗する目黒盛豊見親(みぐるむいとぅゆみゃ)の勢力です。佐多大人は兵力で宮古島を制覇しようとしますが、目黒盛豊見親に敗れて亡くなります。この戦の時期が明確になっていないため、宮古島の歴史には諸説あります。戦で亡くなった佐多大人には息子がおらず、甥の与那覇勢頭豊見親が一族の再興を担う後継者となったという説と、佐多大人が血縁関係は不明だが与那覇勢頭豊見親を殺したのではないかという説があります。
ここで出てきた与那覇勢頭豊見親という人は、初めて沖縄本島の中山王への朝貢を行った人物です。その頃沖縄本島もまだ琉球として統一されていない時代でした。与那覇勢頭豊見親はこれから宮古島を統一するにあたって、統一を成し遂げた際の後見を期待して中山王察度へ朝貢し、その際に宮古島の首長として任命されました。1390年のことです。その後与那覇勢頭豊見親の孫である大立大殿を目黒盛豊見親が養育し、この大立大殿が目黒盛豊見親の子孫である仲宗根豊見親を見出して養育したようです。仲宗根豊見親の童名は空広(ソラビー)といい、幼い頃から優秀で人望も厚く、いくつかのアヤゴやアヤグと呼ばれる宮古島の伝統的な歌にその名前やエピソードが残されています。その内容から察するに、井戸掘り等インフラ整備に力を注いだようです。大立大殿とその子供の死後、仲宗根豊見親は宮古島の主として島を統べ、沖縄本島の尚円王から島主と任命されました。
仲宗根豊見親の功績
「オヤケアカハチ討伐」 一番有名なのは、オヤケアカハチの討伐に参加したことです。1500年に起きたオヤケアカハチの乱は、八重山の首領であるオヤケアカハチを打つため琉球の船団が石垣島に侵攻してきた謂わば戦争のことです。この時仲宗根豊見親は琉球の船団の先導をする形で従軍し、結果として琉球はオヤケアカハチを討ち取りました。この戦いで仲宗根豊見親は琉球から大変良い評価を得、その後仲宗根豊見親の二男が八重山守護職となりました。琉球側から見た歴史は、八重山のオヤケアカハチが朝貢を勝手に2~3年断ち、恭順を示している宮古島を攻めようとしたため討伐したことになっています。一方八重山側の歴史では、島民が総意で首領と認めたオヤケアカハチが、圧倒的な軍事力を持つ琉球の一方的な支配に立ち向かうために最期まで抵抗した英雄です。現在でもオヤケアカハチの名前はよく知られており、石垣島では演出家の平田大一さんが脚本を書いた「オヤケアカハチ~太陽の乱(てぃだのらん)」をいう演劇を、地元の子供たちが毎年上演して人気を博しています。
「与那国島の鬼虎討伐」 鬼虎という人は元々宮古島の出身です。鬼虎が5~6歳の頃、宮古島で飢饉が起こり、たまたま行商に来ていた与那国島の人が鬼虎をただ者ではないと見出して、米と交換して連れ帰ったと言われています。当時与那国島はサンアイイソバという巨体の女性が治めていて、鬼虎は部下として働いていましたがめきめきと頭角を現し、遂にはサンアイイソバの地位を奪うまでになります。そこでサンアイイソバは島内で鬼虎に敵う者がなかったため、宮古島の仲宗根豊見親を頼り、鬼虎の成敗を願い出ました。という話がある一方、与那国島が琉球王国に従わなかったため、王国から仲宗根豊見親に与那国島の鬼虎を討伐するようにとの命令が出て、仲宗根豊見親が従ったという話もあります。与那国島は周囲を断崖に囲まれていて船を付けられる場所が極端に少なかったため、外から攻められにくいという特性があり、それを頼みにして琉球に従おうとしなかったそうです。この時仲宗根豊見親は美女を連れて与那国島へ上陸し、鬼虎を酒で酔わせてその隙に成敗するという作戦を取りました。現在の多良間島の八月踊り(国指定重要無形民族文化財)では、「仲宗根豊見親組」というタイトルの組踊で、その時の様子が演じられています。島民に暴虐を振るう鬼虎を、琉球王国の忠臣である仲宗根豊見親が攻め滅ぼす内容です。
宝刀「治金丸」
琉球国王尚家に伝わる三振りの宝剣のひとつが「治金丸」(ちがねまる又はじがねまる)といい、仲宗根豊見親が琉球による八重山平定の慶賀として尚真王に献上したものです。琉球の歴史書である「球陽」によると1522年の出来事ですが、時期には諸説あります。刀身は無銘ですが日本製だということがわかっており、応永信国の作ではないかと推定されています。王家の宝刀となるような立派な日本刀を、一体当時どうやって手に入れたのだろかと想像が膨らみます。「治金丸」を含む三振りの宝刀や衣類、食器や道具と歴史的な文書類等を合わせて「琉球国王尚家関係資料」として2006年に国宝に指定されています。現在は那覇市に寄贈され、那覇市歴史博物館のサイトからアクセスできるデジタルミュージアムで写真を見ることができます。
仲宗根豊見親の墳墓の詳細
宮古島のお墓は元々ミャーカと呼ばれる、琉球石灰岩等の巨大な石を積んで作られた様式が主流でした。一方、沖縄本島のこの頃の主流は斜面等に横穴を掘る横穴式です。仲宗根豊見親のお墓は、ミャーカと横穴式が組み合わされた折衷の墓で、とても珍しい形です。当時から沖縄本島との繋がりがあったことを感じることができます。正面に石造の階段が13段あり、見た目からまるでピラミッドのようだと感じる方が多いようです。墓の内部は円形の部屋になっており前後2室に区切られています。手前の部屋は棺と副葬品、奥の部屋は洗骨後の骨甕が収められています。敷地の中に井戸もあり、当時の石造技術の高さと仲宗根豊見親の権力の大きさを物語る壮大なお墓です。
仲宗根豊見親の墳墓付近の施設
宮古神社
豊見親墓の裏手には、仲宗根豊見親が祀られている宮古神社があります。宮古神社の建立は1590年で、国内最南端の神社です。ここには仲宗根豊見親の他、与那覇勢頭豊見親、目黒盛豊見親、の三柱の神様と、沖縄本島の波上宮から勧請した熊野三神が祀られています。また、近くには宮古島創生神話等の伝説の舞台となった漲水御嶽もあります。漲水御嶽は宮古島最高峰の霊場で、島で唯一一般の方が入場できる御嶽です。ここは仲宗根豊見親がオヤケアカハチ討伐の際、もし討伐が叶えば御嶽の周囲に石垣を築くと願掛けを行い、討伐後に石垣を整備・築造したそうです。今でもその石垣は残っています。ここは昔から現在に至るまで宮古島の方の信仰を集める重要な拝所ですので、マナーを守ってご見学ください。宮古神社も漲水御嶽も、豊見親墓から歩いて行ける距離ですので、この2か所にはぜひ足を運ぶことをお勧めします。どちらも歴史を感じられるスポットです。
モンテドール
漲水御嶽のすぐ隣には、宮古島を代表するお土産であるバナナケーキで有名なモンテドールというお菓子屋さんがあります。、歩き疲れた身体に嬉しいスイーツが揃っていますので、こちらもお勧めです。
仲宗根豊見親の墓の基本情報
所在地 | 沖縄県宮古島市平良字西仲漲水海岸(MAPで見る) |
アクセス | 平良港から徒歩で3分 |
駐車場 | あり |
トイレ | あり |
営業時間 | - |
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